ムヒカ元大統領を偲んで
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2025年5月13日、ホセ・ムヒカ氏が1週間後には90歳の誕生日を迎える日に、この世を去りました。ムヒカ氏は2010年~2015年まで第40代ウルグアイ大統領を務めました。彼の生涯は波乱に満ち、揺るぎない哲学で多くの人々に深い感銘を与えました。
日本ウルグアイ協会では、ムヒカ元大統領を偲び、関わりのあった方々に思い出を語っていただきました。 |
竹元 正美 会長(元駐ウルグアイ大使)
| この度、ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領が89歳で逝去しました。心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。
私がウルグアイに赴任した当時は、ムヒカ元大統領は、農牧水産大臣を務めておりました。日本大使館は、草の根無償協力により、教育・福祉・低所得層支援などのプロジェクトを進めておりました。これらのプロジェクトの引き渡し式などの折には、ムヒカさんは、最前列の席に座り、日本からの支援に感謝の意を表しておりました。私は、壇上からムヒカさんの愛称である『ぺぺ』と呼びかけるとにっこりと笑っておりました。 ムヒカさんは、特に教育の重要性を訴えておりました。低所得層や恵まれない人たちに心を寄せておりました。私がウルグアイを去る頃は、大統領選挙戦を戦っておりました。そして大統領に選出されました。私は、ムヒカさんが大統領になったら、世界で注目を集める大統領になると思っておりました。洋服やネクタイなどは着用せず、ジャンパーのようなものを着ておりました。 私の予想通り、大統領になってから世界中で注目を集めました。それは、国連でのスピーチでした。物質主義への警鐘でした。「私たちは発展するために生まれてきたのではない、幸せになるためにこの地球にやって来たのだ。」 政治家には高い給与は必要ないという信念から、大統領時代は給与の9割を寄付し、月に775ドルの生活であったという。世界一貧乏な大統領と言われ、日本でもムヒカさんの本が何冊も出版され評判になりました。 2016年、ムヒカさんは夫人と共に来日しました。東京外国語大学で若者に向け講演しました。「富は幸福をもたらさない。希望と情熱をもって生きていくことが大切である。」 日本のテレビで、私は、世界一貧乏ではなく、世界一質素な大統領であると指摘しました。ムヒカさんの考えや生きざまは、多くの人たちの心に残り続けるものと思います。
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日・ウルグアイ友好議員連盟会長を務めておられる松島みどり議員から追悼文をいただきました。
「世界でいちばん貧しい大統領」として知られた、ウルグアイ(南米)のホセ・ムヒカ元大統領が13日、89歳で亡くなられたことを報道で知りました。私は、今年3月1日のオルシ大統領の就任式に政府特使として出席するため同国を訪れた際、ご自宅の一室で面会することができました。 当時からすでに食道がんの闘病中でしたが、農村部の冷房のない質素なご自宅で、50分にわたりお話しし、また、国連の会議でも語った「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」というお話など、「持続可能な未来社会」について熱弁を振るわれていたことが思い出されます。ご自身の小さい頃の写真を見せてくれるなど、大変親しく接していただきました。 ホセ・ムヒカ元大統領に謹んで哀悼の意を表するとともに、ご遺族、ウルグアイの皆様に心からお悔やみ申し上げます。
(松島議員より許可をいただきインスタグラムより転載) |
佐久間 健一 理事(元駐ウルグアイ大使)
ムヒカ元大統領追悼
先般ムヒカ元大統領が逝去されました。ここに心より哀悼の意を表します。私は2010年から2013年までの3年間、駐ウルグアイ大使を勤めました。
2月26日に着任して3月1日の大統領就任式への出席。まさにムヒカ元大統領と共にあった3年間でした。
その間、様々なお付き合いをする中、多くの学びそして思い出があります。ここに一つ一つ書き記すことはできませんが、思い出に残る出来事を少しだけ記したいと思います。
ムヒカ元大統領の信念は、清楚に国を思って生きることということに尽きるでしょう。「貧乏ということは何もないことではなく、もっともっと欲しがることだ」と常々語っていました。その背景には若いころ日系人社会の中で花卉栽培を共にして生計を立てるという経験をする中で、日本人の勤勉さ、険しい生活態度から学んだ哲学があったのだと思います。「若いころ日本人の彼女が欲しかった。」これは彼が私に話してくれたことですが、半分は冗談だとしても嬉しい言葉でした。また、離任の挨拶で伺った際、最後に「日本のような国になりたい」と話されました。この言葉は今も心の宝物として残っています。 合掌
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田中 径子 会長代理(元駐ウルグアイ大使)
私がウルグアイに赴任した2014年11月、ムヒカ大統領(当時)は既に日本でも良く知られており、信任状奉呈の際にお会いできる事を楽しみにしておりました。ところが着任してみるとムヒカ大統領はこうしたフォーマルな式典を好まず、新任大使の信任状奉呈式はムヒカ大統領の海外出張時を狙って副大統領に対して行われるという事で、幸いさほど待たずに他の大使と共に奉呈式は行われたのですが、結局翌年2月までの大統領在任中に公式の場でお会いする事はかないませんでした。
一方で年に2回、メーデーと年末にムヒカ氏自宅近くのキンチョ デ ヴァレラで行われるアサードに日本大使は毎回招待されておりました。大使が招待されている国は数カ国に過ぎず、これは竹元大使など歴代の日本大使との良好な関係の賜物と思い、私の代で途切れる事のないよう毎回館員を伴って参加しておりました。現政権のオルシ大統領、コッセ副大統領もこのアサードの常連でしたが一方でご近所の一般人もいらしていてムヒカ氏の飾り気のない人柄が忍ばれました。私はというとムヒカ氏と館員のツーショット写真だけは忘れずに撮りましたので彼等の良いウルグアイ在勤記念となった事でしょう。
大統領退任後、公邸会食にお招きした時には農園で育てた菊の花束を抱えていらっしゃいましたがいきなりの質問が「日本人のルーツはどこなのだ?」という予想もしなかったものでしどろもどろになりながら答えた事を良く覚えております。
ところでムヒカ氏と元日産のカルロスゴーン両名とそれなりに接点があったという事では私はひょっとしたら世界唯一の存在かも知れないと思うのですが、このふたりの性格が驚くほど似ているのです。かたや世界で最も貧しい大統領、かたや高給取りながら特別背任で追訴された経営者と全く違うふたりですが。その詳細についてはまた別の機会に触れたいと思います。 改めまして慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
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眞銅 竜日郎 理事(元駐ウルグアイ大使)
《 桜の花となり我々を見守ってくださるムヒカ大統領 》
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ホセ・ムヒカ元大統領の訃報に接し、衷心よりお悔やみ申し上げます。ムヒカ大統領は日本とウルグアイの信頼関係の深化に多大なる貢献をされました。偉大な実績を称え、深甚なる謝意を表します。
ムヒカ大統領夫妻は小生の要請に応えて、2018年10月に大使公邸で開催したウルグアイ・日本人移住110周年記念式典に出席してくださいました。当時、ムヒカさんは上院議員、ルシア・トポランスキー夫人は副大統領の要職にあり多忙を極めておられました。それにも拘わらず、「移住110周年をお祝いする日は本日しかない。他の予定を変更し日本を優先して駆けつけた」と語ってくださいました。参集した日本人はムヒカ大統領夫妻から祝福を受け、感涙に咽びました。
これをきっかけに小生はムヒカ大統領夫妻と信頼関係を構築しました。特に、ムヒカさん夫妻が愛好する桜と菊の花を相互に贈り合って交流を深めました。2020年11月にはムヒカさんの自宅農園に桜の木を寄贈して、一緒に植樹しました。ムヒカさんは、「念願だった桜の木を自宅に植えることができて嬉しい。私は近い将来、天に召される。私の亡骸は本日、眞銅大使と一緒に植えた桜の木の隣に埋葬してもらい、桜の花が綺麗に舞うのを天国から愛でながら人々を見守りたい」と、仰いました。
小生は帰任を前にした2021年9月、ムヒカ大統領ご夫妻を拙宅にお招きして別れを惜しみました。次世代を担う日本人へのメッセージをお願いしたところ、ムヒカさんは「日本を尊敬している。一方、日本は忙し過ぎる。それ程急いで一体、何処に行くのかと問いたい。日本が外国の影響を過度に受けず、日本の美徳を活かした幸福な社会であるよう願っている。人生で大切なのは勝利することではない。たとえ転んでも起き上がり、再び歩むのが大事である」と、語りました。今後、小生は桜の花を見上げる時、ムヒカ大統領から賜った御恩に深謝しながら思いを馳せます。ムヒカ大統領のご冥福をお祈り申し上げます。
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後藤 千恵子 会員
私が、ウルグアイにJICAのボランティアとして行ったのは、2011年4月~2013年3月、ちょうど、ムヒカ大統領の時でした。外務省にあいさつに行った時、「この建物の上に大統領の部屋があり、いつでも、だれでも大統領に会うことができるんだよ」と聞き、日本との違いに驚いたものでした。テレビに映るムヒカ大統領は、いつもノーネクタイの親しみやすい、白髪の、あの笑顔でした。
月に1度、日本人会の料理教室がありました。そこで話されるムヒカ大統領は、皆からペペ(お父さん)と呼ばれ、まるで隣のおじさんの事のように、おいしい料理の話題になっていました。ウルグアイに住む日本人の多くが花の栽培をしており、本当に、近くに住むおじさんだったのかもしれません。
2011年は東日本大震災があった年です。ウルグアイに行って間もなく、日本庭園で慰霊祭が行われました。放射能を心配する日本に対して、ある運転手さんは、「私たちウルグアイ国民は、原子力に対してNOを選んだ」と誇らしげに話していました。
ネオンサインの無い、首都モンテビデオの真っ暗な空に、各家々から上がる年末の花火は、昼間の美しい景色にも増して、輝いていました。川沿いの道路に沿ってはるかかなたまで延々と続く花火は、ムヒカ大統領の思いが、国民一人一人に根付いていることを示す光景なのだと確信します。
ムヒカ大統領のご冥福をお祈り申し上げます。
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イグナシオ ダバロス 会員
去年の7月、投稿コーナーにイグナシオ・ダバロスさんからの原稿を掲載しましたが、彼から事務局にメールをいただきました。
お悔やみ申し上げます。訃報を聞き、私がウルグアイに帰国した際に会って下さったムヒカ元大統領へのインタビューを再生し、しみじみ本当に素晴らしい方だったと再認識しています。
インタビューについては「会員からの投稿 2024年7月」に掲載しております。そちらをご覧ください。










