3.11 日本とウルグアイの絆
12年前の2011年3月11日、世界でも未曽有の大地震が日本を襲いました。日本ウルグアイ協会は『特集3.11』として、3回に分けて掲載します。第1回は、当時ウルグアイにおられた元大使夫人佐久間良子会員が思い出を語ります。
その日、私は日本で大変なことが起きていることなどつゆ知らずに、友人達と楽しく過ごしていました。そして、事の重大さを聞いてからは、テレビにかじりつきNHKのニュースをずっと見ていました。怖れ、悲しみ、不安などがどんどん大きくなっていました。そんな時、とても嬉しく、重い心を軽くしてくれた出来事があったことを知りました。
その場に居合わせなかったことは残念ですが、話を聞き写真を見て心が熱くなりました。 それは、Juan Zorrilla de San Martin校の生徒さん達150人がご両親や先生方と一緒に手をつないで輪になり、日本大使館を囲んで被災者を励ましてくださったことです。「日本、応援しています」のメッセージと一緒に折り鶴もあります。なんと優しい人達なんだろうと感激しました。
それからほどなくして、Portones Shoppingの一室に千羽鶴の部屋が設けられて校の生徒さん達が折った鶴が天井からたくさん吊り下げられていました。部屋に入って来た人達も入口に置いてある折り紙を手に取り、上手に折ってくれました。折り方を知らない人とは、教えながら一緒に折りました。鶴の折り方を沢山の人が知っているのに驚きましたが、日系人の方々が教え続けて広まっていったのだろうと思います。感謝です。折り鶴の歴史を知っている生徒さんがいたことにも驚かされました。日本の伝統文化がウルグアイの人に興味を持たれていることをとても嬉しく思いましたし、折り紙という日本の文化で私たちが逆に励まされていることに気づきました。
帰国して10年経った今でも、3月11日が近づくといつも思い出します。ウルグアイの人達の優しい気遣いと温かさを。特に、一番遠い国である日本のことに心を痛め、私達と心を一つにしてくれた子ども達のことを。鶴を折ってくれた子供たち、大使館を囲んでくれた子供たち、きっと素敵な大人になっていることでしょう。 「ウルグアイ、ありがとう、感謝しています。」
写真は「在ウルグアイ日本大使館ホームページより」
第2回は日本で大地震を経験した数少ないウルグアイ人の一人であるオラシオ会員が思い出を語ります。
茨城県水戸市での留学を終え、ウルグアイに帰国するおよそ2週間前、マグニチュード9の巨大地震が発生しました。もう12年も経っていますが、地震が始まった最初の数分間の記憶は今も頭に残り、何年たっても消えないでしょう。この体験を皆さんにお話ししたいと思います。
地震が発生したとき、私は10階のレストランで昼食をとっていました。高層ビルにいたため、このような大きな地震を経験すると建物が激しく揺れ続けるため、通常よりも揺れを感じます。
すべては普通の地震のように始まりましたが、数秒後には、これまで経験したことのない現象であることに気づきました。私は今でも、キッチンで割れる皿の音や、床に散らばるカトラリーの音を覚えています。激しい揺れによって部屋中に飛び散った食べ物で床は汚れ、恐怖に震える人々を見ながら、バランスを取ることは無理でした。何が起こっているかわからないまま、しゃがんで近くにあったパイプにつかまりました。天井からぶら下がっているライトがますます強く揺れ動き、最後には天井に激しくぶつかって割れ、明かりが消えてしまいました。その瞬間、心の中で「この建物が崩壊するかも」と思いました。
ようやく本震が収まったとき、叫び声や泣き声が少し静まりました。その時、レストランのスタッフは熟考された避難プロトコルを発動しました。スタッフが冷静に且つ迅速に誘導し、客をその場所から逃がしました。その様子も、今でも忘れることのできないものです。そして、わずか数秒で10階分の階段を下りたと思います。 下に降りて建物の外に出たらまたショックを受けました。すでに、避難所である近くの学校に案内してくれる人たちがいたのです。そこで、余震が続く中、みんなができるだけ落ち着いて待ちました。
この経験を通じて、日本が災害の対応に関してどれほど先進的かについて初めて気付くことができました。もしこの地震が私たちの国を含む他のどの国に襲来したとしても、被害がはるかに大きくなるだけでなく、恐怖や混乱が避難や救助のプロセスに大きな影響を与えることになるでしょう。
あの日以来、避難訓練に参加したり、近所の避難所を覚えたりすることが当たり前のことになりました。これは、日本が与えてくれた最も大事なライフ・レッスンだったと思います。
第3回は日本で実際に地震の被害を受けた藤井会員が、思い出を語ります。
2011年3月11日、当時私は茨城県水戸市に住んでいました。茨城県は地震の多い県ですが、震度6というのはもちろん初めての経験でした。屋根の瓦は落ち、灯篭は倒れ、食器棚からはコップや茶わんなどが床に割れて散らばり、電気、水道が止まり、明かりのない夜にも続く余震に怯えていました。メール、電話、携帯も使えず、情報源は電池式ラジオのみ。聞こえるのは、アナウンサーの絶叫した声だけでした。5日後、電気が復旧し、テレビに映し出された津波の画面を見て、私は余りの恐ろしさに直視することはできませんでした。日本が大変なことになっていることを認識し、改めて自分が無事でいることに感謝しました。
PCを開くと、溜まっていたメールが一度に受信され、その中にはウルグアイの教え子からの心配するメールが数多く入っていました。電話もありました。みんな一様に ganbatte!と。
新聞も配達され、少しずつ、色々な情報が入ってくるようになり、朝日新聞で嬉しいニュースを目にしました。当時のエステベス駐日ウルグアイ大使ご本人が付き添って、被災地への支援物資としてコンビーフ4600缶(約2トン)を石巻市に輸送されたとのことでした。缶詰のラベルには「日本の皆様が元気になりますように」と書かれていたそうです。私は記事を読み、「さすが牛肉の国、ありがとう!」とつぶやきながら、それにも増して、現地まで行かれたエステベス大使の心遣いと勇気に感謝と尊敬の念を抱きました。
その後、日本ウルグアイ協会として故角田会長のお声で、エステベス大使に対する感謝の昼食会が設けられました。今も、コンビーフを買うたびに思い出します。
